初心(うぶ)めの夏


 「ギャアアアアアア・・・!」と断末魔を叫びきったきり、そのまま男は絶命した。床に死体がごろり、と転がる。その全身は傷だらけだった。傷はどれも広く、深い。ついさっきまで体内をぐるぐる流れていた血が、ありとあらゆる傷口から、ぶくぶく泡を立てて吹きこぼれている。ぼくの目の前でひとつの命が今、消えた。

 ひとつの命を消した少女が、その傍らに立っている。恍惚とした表情で。少し身体を丸くかがめ、浴びた返り血をぽたぽた下へ落としながら、その血の元の持ち主の死体を――痛みと絶望に歪んだ死に顔を――うっとり穏やかに鑑賞している。左手には見るからにずしりと重たい日本刀。ひとつの命を吸いしぼり、赤く妖しい光を照らす。

「あのー・・・」

 と、ぼくは言った。

「あのー、もうそろそろいいですかね?」

「・・・ハッ!」

 もうまさに「ハッ!」としか言いようのない挙動で、瞬間、彼女が我に返った。スイッチが切れたのだ。

「ごっ・・・ごめん関口くん! ねえ大丈夫、血ぃかかったりしてない? 平気? あ、それより急がなきゃだよね・・・わー、もうこんな時間じゃない! ごめーん」

 途端に、あたふたと彼女は捲くし立てる。先刻まで男がどれだけ許しを乞おうが意にも介さず淡々と、しなやかで優雅に上品に刀を振っていた(人を殺すのに上品も何もあったもんじゃない、と普通は思うかもしれない。けれどスイッチの入った彼女は、本当に気高く、全身から気品を撒き散らすふうな艶やかさで、しゃらりと刀を振り下ろすのだ)少女にはとても見えない。

「うん平気。かかってないし、時間も気にしないで大丈夫。人を殺すときのアキコちゃんは本当、すごく綺麗で見とれてしまう」

 と、ぼくは言った。これは偽らざる本心だった。

「えーヤダようそんなの。それじゃだって普段の私は綺麗でも見とれもしないってことじゃん」

「そんなことないよ。普段のアキコちゃんも綺麗だし好きだよ」

 もちろん、これも本心。ただし「・・・そそっかしいけど」というオマケが付くのだが、それは口には出さなかった。



 彼女の名前は中善寺アキコ。どこにでもいるフツーの女子高生、16歳。明朗快活、ちょっぴりおてんば、成績は中の下、好奇心旺盛。そしてぼく――関口タツキのクラスメイトであり、ガールフレンドでもある。ぼくとアキコちゃんはフツーのクラスメイトとして出会い、フツーのフレンドにまずなって、いつしかフツーの恋人同士になっていた、

 ・・・ら良かったんだけど、彼女はフツーじゃなかったんである。

 彼女の半分はフツーの高校2年生の女のコ、だけどもう半分は、関東一円を支配する大暴力団・中善寺組の組長なのだ。「女子高生モード」の彼女は、そそっかしくて可愛らしい、くりっとしてて小猫みたいな女のコだけど、いったん「組長モード」になる(これをぼくは「スイッチが入る」と呼んでいる)と、そこには修羅としか言いようのない別の生命体が立っている。


 その修羅っぷりたるや筆舌に尽くしがたい。組長モードのアキコちゃんは徹底的に冷酷で、残忍で、淡々とした表情の裏で、心の底から愉悦しながら人を裂くのだ。ひとたび彼女の怒りを買えば、微塵の情けも容赦もなく身を刻まれ、嬲られ、分解されて殺される。ブレザーが返り血で赤黒く滲む。赤黒く滲んだ彼女は、けれどその暗い色をも取り込んで、信じられないくらい気高くて美しい。


 そもそも女子高生がヤクザの組長だなんて荒唐無稽きわまりないにも程があるのだが、先代(アキコちゃんの父)が病に倒れ、跡目について腹心を前に「娘に継がせる」と明言したとき、居合わせた誰ひとりとして異論を挟む者はなかったという。彼らは皆アキコちゃんの内の修羅を知っていた。その残忍さを畏れていた。その美しい強さを崇拝していた。

 床に臥せながら先代は言った、
 「アキコは確かに普段は可愛い女子高生だ。実に可愛い。あれだけ可愛ければそりゃあモテるだろう。わしはアキコにセーラー服を着せたかった。だが本人はブレザーのほうがいいと頑として曲げんでな。やむなくブレザーの学校へ行かせた。大変に心残りである。

 あとアキコはね、体操服のブルマ姿も実に良いんだよ。中学の運動会に行ったとき「恥ずかしいから写真は絶対に撮るな」と言われたが、あまりにも眩しかったので安田に隠し撮りさせたんだ。安田は見つかってアキコに惨殺されたが、命を賭けてフィルムを守った。漢だったね。惜しい男を亡くしたものだ・・・そのフィルムは今も銀行の貸し金庫に厳重に保管してある。週に1度は見に行くよ。これがもう何度見ても実に」

「あの、組長。僭越ながら、跡目の話からだいぶ組長の趣味の話にズレてきているような・・・」

 口を挟んだ部下はその場で射殺された。

「とにかく跡目はアキコに継がせる。見た目は女子高生だが、あれの中に本物の修羅が棲んでおることは皆重々理解しておろう。あれなるは真の極道の姿である。というか極道を超えている。わしの代では成しえず終いえた中善寺組全国制覇の夢、叶えるに足るはあれを置いて他におらん」

「Exactly.(その通りでございます)」

 と、腹心たち(マイナス1)は口を揃えた。

 こうしてアキコちゃんは中善寺組の組長になった。極道を超えた女――誰ともなく、やがて彼女を「超極道」と呼ぶようになった。



 りん、と風鈴が鳴った。

 「超極道モード」を解除したアキコちゃんは、その音で、ようやく完全に「女子高生モード」へ切り替わったようだった。女子高生のアキコちゃんと、男子高生のぼく。そこだけ見ればごくフツーのカップルなぼくらは、今夜これから夏祭りへ行く約束をしている。ごくフツーのカップルの、ごくフツーのデートをしに。なんか足もとに死体とかあるけど。

「よし、じゃあ処刑終了。お祭り行こう。準備しなきゃ」

 処刑とか言ってるけど。

「もー、バカのせいで関口くんとの大事なデートが押しちゃったじゃんよう。バカ、ほんとバカ」

 とアキコちゃんは惨殺死体の頭部をごつんと踵で蹴りつけ、さらに顔面をズドッズドッズドッと踏みつけた。3度めのズドッでぐしゃりとつぶれて右の眼球が飛びだした。ちなみに左の眼球と鼻と唇と両耳は、超極道モードON時に日本刀で抉られ済みなので、すでにない。

 とても「女子高生の」デート前には似つかわしくない光景だったが、仕方ない、これも「超極道の」アキコちゃんの宿命なのだった。もはや5分前まで生きた人間だったとも俄かに信じがたい、赤くて丸いぐちゃぐちゃの塊と化したこの男は、中善寺組の組員である。しかし何やら大変な不義理を為し、どうしても即急に、それも組長直々の落とし前をつける必要があったとかなんとか(そのへんぼくもあまり深入りしたくないので詳しい話は聞いてないけれど)

「とりあえず血ぃ落としてくるね私。速攻でシャワー浴びてくるから待ってて、すぐ! 行ってくる!」

「いいよ全然ゆっくりで。まだ全然お祭り間に合うしさ」

「ダメ! だって花火7時じゃん。なら6時半には出なきゃ。超急ぐ!」と言うが早いが、アキコちゃんはびゅーんと颯爽に部屋を飛びだしていった。
 びゅーんの勢いで、りりりん、と風鈴があわただしく鳴った。




 楽しい時間はあっという間に過ぎる。アキコちゃんとの夏祭りデートはとても楽しかったので、とてもあっという間に過ぎた。

 浴衣姿のアキコちゃんも可愛かった。超急いで準備をしたので着つけも雑でぐちゃぐちゃで、なんだかまるで襷みたいに帯が斜めってたりもしたけれど、とても可愛いとぼくは思った。制服や私服のときと同じアキコちゃんのはずなのに、どこか貞淑でしおらしく、少しだけ大人びて見えたりする。真夏の夜の魔法か恋か、時折ふとした瞬間に、妙に色っぽい仕種をちらりと覗かせる。
 そのたびにぼくはドキドキする。
 アキコちゃんを好きになって良かった、と思う。


 祭りは5人の死者を出しただけで、平穏につつがなく終焉を迎えようとしていた。ぼくらは存分に一夏の夜を満喫した。

 しおらしくとか大人びてとか書いたけれど、それはあくまで「少しだけ」そう「見える」だけ。中身はけっきょく明朗快活元気娘のアキコちゃんなので、人、人、人。でごった返す混雑の中を、するする巧みなフットワークで次から次へ動き抜けていく。
 ぼくを引っ張って「金魚掬いだ! やろうやろう」「あ、綿飴たべたい! 関口くん買って」「射的あるよ射的! やろうよ」「おなかすいたねー。お好み焼きとかいいなー」・・・次から次へ。前へ前へ。超アクティブにアキコちゃんは走る。夏祭りの夜を突き抜ける。


 突き抜けた後には死体が残る。アキコちゃんはぼくに良いところを見せようとして「見てて! 絶対とるから!」と血気盛んに金魚掬いへ挑んだけれど、一匹もとれず惨敗した。「うえーん」と可愛らしく消沈するアキコちゃんを「がっはっは。まだまだだねーお姉ちゃん」と豪快に笑った屋台のおっちゃんは15分後にこの世から消えた。おつりを100円少なく返してしまった綿飴のお兄ちゃんも処刑された。
 射的ではぼくが犬のぬいぐるみを狙って、見事ド真ん中に命中させたけど弾が軽くて倒れなかった。射的屋のおっちゃんは気を利かせて「惜しかったね。けどま、ありゃあちょっと重すぎたわな。命中だったし持ってっていいよ」と気前良くぬいぐるみをくれた。処刑された。「関口くんに恥をかかせた」という理由らしかった。
 「あんなに重いとか超ずるっこい! フェアじゃないじゃん」と、ぷりぷりアキコちゃんは怒った。ぷりぷり怒るアキコちゃんの横顔はとてもキュートで、冗談みたいな破壊力だった。円いほっぺを楕円の形に膨らまして、唇をあひるみたいにとんがらがす。とんがらがしたその唇に、いつか触れる日が来るんだろうか・・・そんなことをぼくは思った。ぼくらは付き合って4ヵ月になるが、まだキスをしたことがない。


 「いつか」は、いつかどころか、その1時間後にすぐ訪れた。たっぷり夜を突き抜けて、疲れて、おなかも膨れたし、もちろん花火もしっかり見れて、ちょっとひと休みしようかってぼくらは少し離れた公園まで歩いた。お客をごっそり祭りに持っていかれて、ほとんど公園は誰もいなかった。そのうえご丁寧にも、ベンチの真上の電灯がちょうど壊れていて、辺りは暗い。
 月の光がほんのり僅かだけ差すその暗がりで、ぼくとアキコちゃんは初めてのキスをする。差す月の光と同じくらい、それはほんのりと軽い、霞のようなキスだった。


 そして、しばらく、余韻という名の柔らかい沈黙が来た。


 「・・・なんか、あれだね、照れくさいね」
 その柔らかい沈黙をふんわり溶ろかすように、アキコちゃんが小さく口を開いた。
「そうだね」と、ぼくも小さく言った。
「初めてのキスは、関口くんがさっき食べてたかき氷のシロップの味がしたよ」と、彼女が小さく言った。
「あはは」と、ぼくは小さく笑う。
「関口くんは、どんな味がした?」と彼女が訊いたので、ぼくは「さっき最後に処刑したスーパーボールの屋台のおっちゃんの返り血の味」という正直な答えをぐっと飲み込み、「アキコちゃんがさっき食べてたあんず飴の味だったよ」とウソをついた。
 アキコちゃんはぼくのウソに気づくふうもなく「そっか、嬉しいな。おそろいだね」と小さく笑った。別にそろってないよね・・・という正直な答えを、再びぼくは飲み込んだ。



 「そろそろ、帰ろっか」とアキコちゃんが言った。名残惜しそうに、小さく言った。ぼくは「そうだね」とベンチから立ち上がる。一拍遅れてアキコちゃんも立ち上がろうとして、そのとき、立ち上がりかけたアキコちゃんのおでこに、ぼくは最後のキスをした。「わわっ」と、やや大袈裟に驚く彼女。
「なんだよー、びっくりするじゃないか、不意打ちは」と恥ずかしそうに、はにかむ。
「いやいや」と、一瞬なんて言っていいのかわからなくなって、ぼくは言葉を濁す。
「何がいやいやですか」
「いや、あの・・・えっと、」
「ん?」
 立ち上がりかけたのを不意にキスされ、中腰になったままの姿勢でアキコちゃんがぼくの顔を覗き込んだ。その色っぽい上目づかいに、ぼくはドキリとする。余計に次の言葉が出なくなってしまう。
「や・・・なんていうか、あの、なんだろ、」
「なんでしょう」
「その、不思議だな・・・と思って」
「何が?」
「今が」
「今? どうして」
「どうしてかな、けど全部が不思議。だってついさっきまでぼくは、こんなふうにアキコちゃんとキスをする日がいつか来るだろうかって思ってた。昨日まで、夏祭りがこんな楽しいとも知らなかった。1ヵ月前は手をつないだだけでドキドキしてたし、半年前はアキコちゃんと付き合うようになることさえ思ってもなかった。なのに今は、こんな今があって・・・そういう全部。全部がすごく不思議だらけだ」



 「ねえ、この世には不思議なことなんて何もないんだよ? 関口くん」



 と、彼女は言った。上目づかいでぼくをドキドキさせたまま、ずっとぼくを思考停止に追い込んだまま、今まで見た中で圧倒的に最強にいちばん可愛いとびっきりの笑顔で、そう言った。
「私たちが付き合って、手をつないで、夏祭りに来て、キスをして・・・そういう全部が、きっと当たり前のことなんだ。だって私たちは――私と関口くんは、出会って、恋をしたんだから」


 そして彼女はようやく視線をぼくから外して、立ち上がる。ぼくに背を向け「さ、帰ろ」と元気に言った。きっと彼女も照れくさかったのだろうと思う。だけど照れくさいのを押し切って、そんな気取って恥ずかしい台詞を大真面目にぼくへ届けてくれた彼女を、心底ぼくは愛おしく思う。ぼくはアキコちゃんが好きだ。

「うん。帰ろう」

 ぼくらは歩きだす。
 歩きながら、最後にしたキスの感触を唇に思いだす。アキコちゃんのおでこの、小さくて、柔らかくて、温かい、感触。その小さくて柔らかくて温かいおでこが、2ヵ月後、浮気がバレたぼくに地獄の制裁ヘッドバッドを何千発と食らわせ、ぼくの頭蓋骨を粉砕する鉄の凶器へ変化するなんて、このときは知る由もなかったんだった。


 あー、エミちゃんなんかとやるんじゃなかったなー・・・とぼくは思いながら「ギャアアアアアア・・・!」と断末魔を叫びきり、死んだ。