第三話

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。気がつけば、楽しかった夏祭りもそろそろ終わりに近づいている。なんかもうこれ書くの飽きてきた・・・という見えざる神の声はともかく、本当にあっという間だったと思う。

 浴衣姿ではしゃぐアキコちゃんは、いつもよりどこか全体的にしおらしく、少しだけ大人びて見えたりする。真夏の夜の魔法か恋か、時折ふとした瞬間に、妙に色っぽい仕種をちらりと覗かせる。そのたびにぼくはドキドキする。アキコちゃんを好きになって良かった、と思う。


 祭りは5人の死者を出しただけで、平穏につつがなく終焉を迎えようとしていた。しおらしくとか大人びてとか書いたけれど、それはあくまでも「少しだけ」。アキコちゃんは基本明朗快活元気娘なので、人、人、人。でごった返す混雑の中を、するすると巧みなフットワークで次から次へ動き抜けていく。ぼくを引っ張って「金魚掬いだ! やろうやろう」「あ、綿飴たべたい! 関口くん買って!」「射的あるよ射的! やろうよ」「おなかすいたねー。お好み焼きとかいいなー」・・・次から次へ。前へ前へ。超アクティブにアキコちゃんは走る。夏祭りの夜を突き抜ける。

 突き抜けた後には死体が残る。アキコちゃんはぼくに良いところを見せようとして「見てて! 絶対とるから!」と意気盛んに金魚掬いへ挑んだけれど、一匹もとれず惨敗した。「うえーん」と可愛らしく消沈するアキコちゃんを「がっはっは。まだまだだねーお姉ちゃん」と豪快に笑った屋台のおっちゃんは5分後にこの世から消えた。おつりを100円少なく返してしまった綿飴の屋台のお兄ちゃんも処刑された。射的ではぼくが犬のぬいぐるみを狙って、見事ド真ん中に命中させたけど弾が軽くて倒れなかった。射的屋のおっちゃんは気を利かせて「惜しかったね。けど重すぎたねごめん。命中だったし持ってっていいよ」と気前よくぬいぐるみをくれた。処刑された。「関口くんに恥をかかせた」という理由らしい。「あんなに重いなんて超ずるっこい! フェアじゃないじゃん」とアキコちゃんはぷりぷり怒った。ぷりぷり怒るアキコちゃんの横顔はとてもキュートで、冗談みたいな破壊力だった。円いほっぺを楕円の形に膨らまして、唇をあひるみたいにとんがらがす。とんがらがしたその唇に、いつか触れる日が来るんだろうか・・・とぼくは思った。ぼくらは付き合って4ヵ月になるが、まだキスをしたことがない。


 「いつか」は、いつかどころか、その1時間後にすぐ訪れた。たっぷり夜を突き抜けまくって、遊び疲れて、おなかも膨れたし、もちろん花火も見たし、ちょっとひと休みしようかって少し離れた公園まで歩いた。公園にはほとんど人がいなかった。そのうえご丁寧にも、ベンチの真上の電灯がちょうど壊れていて、ふもとは真っ暗だった。月の光がほんのり僅かだけ差すその暗がりで、ぼくとアキコちゃんは初めてのキスをする。差す月の光と同じくらい、それはほんのりと軽い、霞のようなキスだった。


 「・・・なんか、あれだね、照れくさいね」
 と、彼女が言った。
「そうだね」
 と、ぼくが言った。
「初めてのキスは、関口くんがさっき食べてたかき氷のシロップの味がしたよ」
 と、彼女が言った。
「あはは」
 と、ぼくは笑った。
「関口くんは、どんな味がした?」
 と、彼女が訊いてくる。ぼくは「さっき5人めに処刑したスーパーボールの屋台のおっちゃんの返り血の味」という正直な答えをぐっと飲み込んで、「アキコちゃんがさっき食べてたあんず飴の味だったよ」とウソをついた。アキコちゃんはぼくのウソにまるで気づくふうもなく「そっか、嬉しいな。おそろいだね」と嬉しそうに笑った。別にそろってないよね・・・という正直な答えを、再びぼくは飲み込んだ。



 「そろそろ・・・帰ろっか」とアキコちゃんが言った。少し名残惜しそうな声で。ぼくは「そうだね」と言って、ベンチから立ち上がった。一拍遅れてアキコちゃんも立ち上がろうとして、そのとき、立ち上がりかけたアキコちゃんのおでこに、ぼくはこの日最後のキスをした。「わわっ」と、やや大袈裟に驚く彼女。
「なんだよー、びっくりするじゃないか、不意打ちは」
 と恥ずかしそうに、はにかむ。
「いやいや」
 と、一瞬なんて言っていいのかわからなくなって、ぼくは言葉を濁す。
「何がいやいやですか」
「いや、あの・・・えっと、」
「どうしたの?」立ち上がりかけたのを不意打ちにキスされ、中腰になったままの姿勢でアキコちゃんがぼくの顔を覗き込む。その上目づかいにドキッとする。余計に次の言葉が出なくなってしまう。
「やー・・・なんだろう、不思議だなーと思って」
「何が?」
「今が」
「今? どうして?」
「だってつい1時間前までぼくは、こんなふうにアキコちゃんとキスする日が来るんだろうかって思ってた。昨日までは夏祭りデートがこんなに楽しいことも知らなかった。1ヵ月前は手をつないだだけでドキドキしてたし、半年前はアキコちゃんと付き合うことになるなんて思ってもみなかった。なのに今は、こんな今があって・・・なんだろう、全部がすごい不思議なことだらけだ」
「ねえ、世の中には不思議なことなんて何にもないんだよ? 関口くん」
 上目づかいでぼくをドキドキさせたまま、ずっとぼくを思考停止に追い込んだまま、アキコちゃんは言った。
「私たちが付き合って、手をつないで、デートしてキスをするのも全部、当たり前のことなんだ。だって、私たちは――私と関口くんは、出会って、恋をしちゃったんだから」

 そして彼女はようやく視線をぼくから外して、立ち上がる。ぼくに背を向けて「さ、帰ろ」と言った。きっと彼女も照れくさかったのだろうと思う。だけど照れくさいのを押し切って、そんな気取って恥ずかしい台詞を大真面目にぼくへ届けてくれた彼女を、心底ぼくは愛おしいと思う。ぼくはアキコちゃんが好きだ。

「うん。帰ろう」
 と言って、ぼくは歩きだす。歩きながら、最後にしたキスの感触を唇に思いだす。アキコちゃんのおでこの、小さくて、柔らかくて、温かい、感触。その小さくて柔らかくて温かいおでこが、2ヵ月後、浮気がバレたぼくに地獄の制裁ヘッドバッドを何千発と食らわせ、ぼくの頭蓋骨を粉砕する鉄の凶器へと変化するなんて、このときぼくは知る由もなかった。

 あー、エミちゃんなんかとやるんじゃなかったなー・・・とぼくは思いながら「ギャアアアアアア・・・!」と断末魔をフル・ボリュームで叫びきり、そして死んだ。