青春ユース


 ぼくが千葉に住んでいたのはもう6年も前の話で、だから6年以上も前の話になるわけですけど Bay FM っていう千葉のローカル局で、何曜だったか忘れたけど深夜3〜4時だかそんくらいの(途中からもっと早い枠に移った)ひどく過酷な時間帯に、眠さと戦いながら毎週欠かさず聴いていた「スーパーカーのオールオッケー」というひどいタイトルの(笑)番組があって、中でもいちばん印象に残ってるのは「ナカコーは腕時計しないよね」っていう話で、ちょうどテープ起こしされている方がいたので(http://www.supercar.gr.jp/html/contents/aok/aok11.html)お借りして引用すると

ジ 「ちょっと待って俺ね、すごいね、疑問があるんですよ。
  ナカコウがね、時計をしていないのね、腕時計を」
コ 「うん」
ジ 「常にね。ナカコウのピッチに時計機能がついてるわけでもないのね。
  あの人はどうやって時間をわかってきてるのかな。俺知りたいんだよね」
コ 「あぁ〜〜・・・・」
ジ 「じゃ例えば渋谷に12時集合ーーつってなんで12時に来れるのか知りたいんだよね」
コ 「あのね、たまにナカコーと一緒に歩いてると、ピッチから、あの、時報に(笑)」
ジ 「(大爆笑)」
コ 「時間きいてた。前。けっこう前の話なんだけどさ」
ジ 「まじで?」
コ 「俺もさ、時計とかしてなかったから、あの、一緒になって(笑)時報に電話して(笑)」
ジ 「秒数までわかるからね(笑)」
コ 「(笑)」
ジ 「全然アバウトじゃないしね、そりゃ間に合うね。これ新しいこときいた」

(11月15日放送ぶん)


 この番組がほんとに好きで。特にジュンジさんのトークを聞くのが楽しみだった。単純にまず喋り方とか声のトーンを個人的に好きだったのもあるんですけど、何より彼の語り口や言い回しが実に面白くて大好きで、番組は毎回メンバー4人が揃うわけじゃなく、主にジュンジ×コーダイの2人で進めることが多くて、ちょくちょくミキさんが加わったり、たまにナカコーさんが来たり、代りに誰かが欠けたりした。ジュンジさんのいない回は、やっぱり少し物足りなかった。

 当時まだ19とか20の若い数人が、そのへんのフツーの若者まんまのノリでだらだらダベってるだけなんだけど、その「身近感」がなんとなく嬉しいのと、プラスその中心にジュンジさんがいることでギュッと1回り洗練されて、格段に聞き応えのある会話に昇華されてた印象がある。ただのタベリをちょっと誉めすぎかもしれないけれど、でも確かにそう思って聞いてたし、オン・タイムで聞いたうえにテープにも録って何回も聞き返しもした。

 予備校の頃に一度、大風邪ひいて3日くらいブッ倒れたことがあるんだけど、いつもなら薬飲んでベッドん中で音楽聴きながらじっと熱が引くのを待つんですけど、そんときはほんとダルくて音楽が鬱陶しくしか思えなくて、んで「オールオッケー」のテープを3日3晩、延々聞いてたのを覚えてる。同じ話を飽きもせず、どれも4〜5回くらいずつ聞いたと思う。ただ彼らのだらだらダベってるだけの空気が、不思議と心地良くて落ちついた。


 例えばそんなふうに19歳の頃のぼくは、とにかくジュンジさんに憧れていた。ラジオからスーパーカーに入ったとかじゃ別にないので音も勿論好きだったけど、何よりぼくと年齢のたった1つしか違わない彼の、生みだすあらゆる「言葉」にいつもグサグサ突き刺されまくってた。CDの歌詞カードを単品で持ち歩き、電車ん中で詩集として愛読してた(って話は前にした気がする)し、他のメンバーのインタヴューとかけっこう適当に読み飛ばしたけど(すいません)彼のだけは執拗に何度も読み返した。

 スーパーカー初期の「P.V.D」というクリップ集は、映像に特別興味のないぼくが、にも拘らずハマって何100回と見返したぼくにとって特別な作品で、それは「ミキちゃん萌え〜」の要素がゼロでは実際ないけど(笑)それ以上に視覚的な「物語」として展開されるジュンジさんの「言葉」がやっぱり、どうしようもなく魅力的だったせいだ。中でも「My Girl」と「Love Forever」と「Be」の衝撃は忘れられない。


 それから6年の経つ間に「Futurama」〜「Strobolights」らへんを境にぼくの中のスーパーカー熱は次第に引いていき、解散を知った今、悲しくも寂しくも思わない自分が我ながら少し薄情に思えたりもする。まぁけど解散なんてそんなもんだ・・・とか適当に言ってみる。たぶん実際、薄情なのはぼくだと思う。いつ頃からか覚えてないけど、気づくとそういう執着ってやつを失っていた。ブランキー・ジェット・シティのラスト・ライヴを泣きながら見送ったのはもう5年も前の話だ。

 いつのまにか物分かりの良すぎる奴になってしまった。それが年齢のせいなら嫌な成長だと思う。かつて「俺は一生こいつらについてくぜ!」と思ってたバンドが解散しようと誰彼が抜けようと、嫌味なくらいあっさり割り切れてしまう自分が今や、いる。ミッシェル・ガン・エレファントナンバーガールんときもそうだった。明日 NATSUMEN が解散を表明してもきっと同じだろうと思う。ハイスタについて書いたとき(id:amn:20040308)それでもハイ・スタンダードっていう母体が、たとえ有名無実であれ「終らずに」「残っていて」くれる、それだけでなんだか物凄く安心する・・・ってぼくは言ったけど、その気持ちが嘘とは今でも思わないけど、でももし解散だったにしろ、そのときはそのときでたぶん割り切れていたようにも思う。


 ぼく自身はそれをあまりネガティヴな捉え方とは思ってなくて、むしろ逆。要は絆の問題と思っていて。ブランキー・ジェット・シティの新曲が発表されることはなくなっても、それぞれ以降の作品で互いに往復し、客演しあう3人をぼくらは見てきたし、こないだもハイスタ3人が揃ってテレビ出演したり。そういうのと幾つも触れていくうちに「なんだ・・・結局、絆さえ切れなければ、またいつか繋がれ直る日もくるんだな」っていう、当たり前といえば当たり前のことをぼくは知った。だからそういう絆の、残ってると感じれる解散は最近あまり苦痛じゃない。そりゃドミノ88みたかったら受け止め方も違うだろうけど、少なくともスーパーカーはそうじゃないんでそれで良い。向井さんとイナザワさんが今後、同じステージで演奏する日が一生来ないだなんて、むしろ想像するほうが難しい。


 勿論、解散を知ってショックで涙する人を「バカじゃねーの」とか絶対思わない。前後不覚になるほど強い思い入れは、落ちつきを取り戻した後、きっと素敵な思い出として長く残ると思う。悲しむのを悪いとは思わないけど、ただ、悲しみ方を間違えるべきじゃないとも思う。「なんでー?」とか「信じたくない!」はわかるけど、「考え直してください!」だの「ふざけんなバカ!」っていう押しつけ的な糾弾を目にするのは個人的にあまり好きじゃないです。亡骸を抱きかかえながら「もう十分だろ。いいかげん忍を休ませてやれ」って言いたくなる。


 スーパーカーが解散するのと、自分の中のスーパーカーが消えてしまうのは別の話。思い出は思い出で大事なんであって、解散というスイッチ1つで瞬時に消えるもんじゃない。ぼくだって解散は割り切れるけど「ジャンプ・アップ」を一生聴けないってなったらそんなの絶対割り切れない。けど、そうじゃないから割り切れる。CDを聴きながら PHS時報に電話するナカコーを思い描く自由がぼくらにはずっと保証されている。