イコ


 「game」なんてカテゴリ立てちゃったけど10中8、9、今日で最初で最後だろな(笑)。


 初代ファミリー・コンピュータ全盛期には、当時萌芽した社会問題の最先端。いわゆる「外で遊ばない小学生」なる新人類の先陣を切り、今にして思えば超の10コくらいつくほど貴重な視力をテレビ・ゲームに捧げまくった殉教徒なぼくですが、中学生んなって音楽へと背信して以来、ゲームとは唯一(ならぬ唯二)ドラゴン・クエストとファイナル・ファンタジーのみに辛うじて接触する程度の体たらくです。

 おまけにDQ7FF10も中盤ほどで放棄。したがって2004年1月現在でのアップデートは6と9で止まっています。


 そんな人間にゲーム論など語る資格も見識もないのは承知のうえで、それでも言及したいのが「イコ」というこのソフトに、ぼくが「もし今ハード持ってたら確実に手ぇ出すだろうな」的な興味を強く抱いているためです。

 趣味性に於いてぼくが強い信頼を寄せている2人の知人(アルバイト先の店長氏とyasu)が先日、奇しくもほぼ時機を等しくして「イコ」の魅力を論じだしました。ちなみに店長が氏付けなのに対しyasuが呼び捨てなのは年功序列というより最初「yasu氏」と書いたんだけど思わずタイピングの手を止めて眼鏡をくぃっ。とやりつつ「どないせいっちゅーねん」とか言いかけてしまった自分への自戒を込めて・なんですがそんなのどうでも良いですね今。


 彼らに共通するのは「イコ」のゲーム・システムや娯楽性のみならず、その世界観に於ける過剰なまでの「説明不足」を重要なファクターとして強調した点です。ぼく自身プレイしてないので以下はあくまで伝聞と想像の領域ですが、プレイヤーには「少女とともに城を脱出しなきゃいけない」という使命感以外のあらゆる情報が何一つ提示されません。極端に限られた状況の中でプレイヤーは「とにかく彼女を守ってあげたい」というたった1つの動機を入り口に、イコに感情を移入します。

 ここから想起されるのは例えば、ヴィンチェンゾ・ナタリの傑作「cube」と比較しての、アンドレア・セクラの続編「hypercube(キューブ2)」の、ちょっとシャレんなってないよレヴェルの凡庸さです。「サーシャのグサランが飛んだ時点で全て終了」ともっぱら噂の(笑)この続編が面白みに欠ける理由は他にもちゃんと幾つかありますが、その1つが消化不良の舞台説明と「3」の予告を露骨に匂わせるラスト・シーン。というのは異論の少ないところでしょう(ちなみに実際は「3」じゃなくて「ゼロ」らしいですけど)。

 「キューブ(1)」は、立方体の外側に関する一切の言及が最後までシャット・アウトされたまま終ります。この点で登場人物と視聴者は同等のポジションにあり、彼らとぼくらが抱くのは「とにかく外に出てぇ」という切迫感。ただそれだけ。キューブをつくった奴とかそいつの目的とかぶっちゃけどうでも良い。ただ逃げたい。家に帰りたい。その切迫が失われないゆえに2回めも同じ緊張感で観れるわけです。蛇に足の生えた「2」は、そのダイナミズムを自ら切り捨ててしまっています(というか、そもそも「cube」に続編つくるのじたいが蛇足かつ自殺行為でしかありえないけど)。


 視聴者のみの視点に切り替えて言えば、説明が不十分だからこそ個人が好き好きに想像を巡らせる自由がそこで獲得されます。そんなのは今更改めて強調するまでもなく、例えば昨日の「エヴァ」なんかまさに典型で(2ちゃんスレッドの話じゃなくオリジナルね。念のため・笑)。勿論あらゆる芸術作品がそういう自由を内包してなきゃならないとは思いません。徹底的につくり込まれた世界観。というタイプの魅力も、完成度さえ高ければ十二分に刺激的たりえます。「攻殻機動隊」とかみたくね。

 あくまで個人的に。ですが、ぼくは前者の「想像力を喚起してくれる」タイプのほうが好きです。これは音楽も漫画も映画もゲームも小説も。おそらく全てに共通して。そして音楽や小説みたいに表現媒介の少ない種類の芸術ほど立ち位置的にそれと近く、逆に映画やゲームのように多様な要素を駆使しうるものほど、どうしても「全てを説明し尽くそうとする」傾向が強いように思います。だからこそその対極へと煮詰められた「cube(1)」や「イコ」にぼくは魅かれるんでしょう。要は「明かされないほうが良い謎もある」って、そういうベタな話ですね。

 考えてみれば「テトリス」とかさ。どんだけ強い重力下でどんだけ綺麗に並べたって、どこへも到達できないわけで。エンディングすら存在しない無限ループ。もしくは「Bタイプ」でやると、まったく意味も脈絡もわからず突然ロケットが打ち上がるっていう(笑)。ただひたすら横一列に10マス埋めて消してくだけの単純作業を、それでも中毒んなって延々繰り返しちゃうわけじゃない。もしくはゲーセンの脱衣麻雀で、対戦相手の女のコってやっぱ自分の好みのタイプで選ぶけど、いざ勝ってみると脱衣シーンっていちいち見ないで飛ばすじゃない大概。本質はそこじゃねぇんだよっつう。そういうのと同じだと思う。


 逆に小説(特にライト・ノヴェル系の)で言うとね。あるキャラクターの初登場シーンで、その容姿なりバック・ストーリーなりを徹底的に描写して並び立てる。つまり「のっけから説明し尽くす」タイプの文章とか。あと単なる風景描写にパラノイアックなくらい精力注ぎ込んでるようなのとか。それってどうしても好きになれない。というより、なんだか勿体ない気がするんですよね。

 例えば漫画だと、登場シーンでは必然的に容姿を描写しなきゃならない。顔の黒く塗りつぶされたいかにも怪しげな悪の総裁とか黒幕を除いて(笑)ヒーローがどんな顔で、ワイルドな2枚目系か。線の細い美少年か。ヒロインだったら「美少女」系か。「美人」系か。そういう情報はそもそもオープン・ソースであって隠しようがない。

 小説が文字の配列のみで表現しなきゃいけないのに対し、漫画はそれを絵と組み合わせることができる。その利点や優位性の強烈さは言うまでもなく、取って食われた小説が死にかけてる現状から明らかだけど、そういう危機的な状況ゆえに尚更・小説本来の「絵と組み合わせなくても良い」自由をないがしろにしちゃまずいと思う。それこそ自殺行為に他ならないんじゃないか。


 更に個人的な話になるけど、ぼくも趣味で小説を書く。そりゃもう「いかにも」って感じの、いわゆる「絵が上手かったら間違いなく漫画に行ってるとこだけど、不幸にもその才能の著しい欠如を自覚しているゆえに仕方なく(笑)小説へ逃げ込んだ」っていう動機が最初だった。んなもんだから当然その頃は「漫画みたいな」小説ばかり書いていた。

 けどある程度時間が経って、それはなんていうか限りなく無意味に思えてきた。戦う土俵そもそも間違ってんじゃんっつう。契機がどうあれ少なくとも今「小説」を書こうとするんなら、漫画の幻影を振り払って「小説なりの表現」に向かわなきゃ仕方ないでしょっつう。そう意識した途端に文章の書き方ががらっと変った。勿論そんなのはあくまでスタート地点であって、その上にもっともっと実験なり猛省なりを積み重ねていかないことには「傑作」なんて遥か彼方の雲の上。それを承知であえて言うけど、それでもやっぱり「自分のやってる分野の特性」とか「可能性」とか。そういう原点を見据えれてないうわっついた「表現」ばかりが今どこもかしこも蔓延しているように見える。


 だからね。ぼくの書いたある小説を読んでくれた人に「この○○ってキャラのモデルって誰かいるの?」って訊かれて、
「いるよ。★★くん」
「★★? なんか想像したのと全然違うんだけど。なんか★★って聞くといかにも眼鏡してそうでイメージと合わない」
「てゆーか○○眼鏡してるんだよ。設定では」
「えっ? うそ? そんなのどっか書いてあったっけ?」
「いや別にどこにも書いてないけど」
「そんなのわかるわけないじゃん」
「だから別にそれでも問題ないと思うんだよ」
 ・・・みたいな会話を過去にしたんだけど、それはギャグでも引っかけでもなく本心であって。必ずしも全てを提示する必要はない。○○の眼鏡が物語内の大切なファクターとかじゃ全然ないわけだから、そんなのは読んでくれる人が勝手に決めちゃって良いと思う。

 同じ理屈でぼくの小説の女のコは、文脈的な要請のない限りルックスに関する記述が一切ないけど、そこは勝手に好きなイメージを当てはめて読んでもらえればなんの問題もない。少なくとも作者の頭ん中ではヒロインの9割が広末涼子だ。でもそんなのは些細な話だ。お姉さん好きな読者は内田恭子に置き換えて読んでくれれば良い。セックス・シーンの間だけ限定で釈由美子にスイッチとか、そういうのもなんでもアリだ。

 それは例えば「構造5」という曲を聴いて、「歓楽街と港湾の構造」という副題とまったく無関係に「学校に傘を忘れてきちゃったセーラー服の女のコ(16歳)が、突然の夕立に遭い駄菓子屋の軒下で雨宿りしている下校の風景」をぼくが勝手に想像するのと同じくらい自由だ。芸術に於いて作者の意図の及ぶ範囲なんて所詮そんなもんだし、解釈がどうあれイントロのギターが鳴った瞬間・身体が思わず踊りださずにいれない感覚を共有さえできるのならば、それで十分素晴らしい。そう思いながらぼくは今日も音楽を聴く。


 あ。「game」ってカテゴリだったの全然余裕で忘れてた。