そっぽ見て待ってるから ポッケの迷ってる手で ほっぺに触れて

amn2004-04-08



 「ジャンプ J-Books」という、乙一を輩出した点以外で言及されてるのを見たときないライト・ノヴェルの一大勢力。ならぬ一「小」勢力があるんですけど(ところで「J文学」ってなんだよ。なぁ?)、でまぁライト・ノヴェルって言葉の通り「あっ軽〜い小説たち」が魑魅魍魎で跋扈する素敵なライン・アップ(というか大半がジャンプ漫画のノヴェライズ)の中にぽつんと、かずはじめさんのイラストを表紙に纏い、末席で控えめに鎮座する映島巡さんの「ゼロ」という作品があります。


 この淡々として。おとなしくて控えめで。刺激的でも劇的でもない「なんでもなくて何事もない」小説が、けれどぼくはとても好きで未だに時々思いだしては何度も読み返すのですが、表題作「ゼロ」の続編として書き下ろされた「パラダイス・ロスト」という併録作で、登場人物の相関図を結ぶ重要なツールとしてパソコン通信が描かれます(96年の作品なので、作中の記述も「インターネット」でなく「パソ通」。今なら誰でも知ってるネット・タームに、いちいちカッコ付きの注釈が挿入されるらへんに黎明期の匂いを感じれて楽しいです)

 ちょくちょく口にしてますが、ぼくは自分のpcを所有しマトモにネットしはじめたのがちょうど1年前の今頃。という「超」の付くスロー・スターターで、だからそれ以前のぼくがネットやらチャットやらオフ会やらに関し抱いていたイメージは、その殆どがここで描かれる風景そのものでした。

 96年といえば、ぼく16歳の高校1年生ですからね。大学生活が5年めという、本来ありえない周期に突入して初めてpc持ったような奴に、96年当時のパソコン通信なんてあまりに縁が遠すぎます。当時のぼくにしてみれば逆に、毎日帰宅と同時にネット立ち上げるのが日課となっている「今のぼく」の姿がむしろ到底信じれないでしょう。


 それでも8年前のぼくは「パラダイス・ロスト」を初めて読んだとき、パソコン通信という未知の世界に漠然とした憧れみたいな印象を確かに抱いたわけで、だから今へ至る土壌に種の蒔かれた最初の瞬間が、たぶんこのときだろうと思います(しようと思えばいつでもできたのに結局、実現までに7年もの月日を要してしまいましたが。笑)

 パソ通の世界はドラクエ6に出てくる下の世界『幻の大地』みたいなものだ。パソコンは大地の裂け目か夢見る井戸。そこをのぞけば、向こう側の世界と自由に行き来できる。

 ・・・という少年のモノローグがぼくにとって長い間、未知の世界をなんとなくでも具体的に思い描かせてくれた殆ど唯一の手がかりでした。


 そして。それからまぁ1年経って、ネットってものの大枠とか海図くらいはどうやら掴めてきた(かな?)今なお読み返すたびに。いや読み返さずとも、波乗りしてて事あるごとにフラッシュ・バックする1つのモノローグがあります。

 つくづく人間っていうのは、物事を2分割するのが好きなんだと思う。パソ通の世界自体が分割されたもうひとつの場であるのに、その中の会話でさえ、ぱげという「水面下の会話」を作ってしまうのだから。もしかしたら、僕らはこうした「裏側」を作らないことには、自分のいる場所がちゃんと「表側」だという確信が持てないのかもしれない。

 ※ ぱげ ・・・ 今で言うチャットでの「ささやき」に当たるもの。パソコン通信では「ページ(page)」と呼ばれていたらしく、それを砕いた言い方。


 ドラクエ6はリアル・タイムに近い形でやっていたので、パソコン通信を知らずとも漠然と把握できた(気になっていた)このモノローグを、実際にインターネットが日課に近くなった今、いっそう痛烈にぼくは感じることが多い。「てゆーか、どこもかしこも2分割だらけでキリないじゃん!」とか思ったりする。


 チャットでの「ささやき」然り。はてなダイアリーとかアンテナだってプライヴェートに設定すれば限られた人しか見れない。orkutmixi に至っては、どこかから蜘蛛の糸(という言い方で過剰にありがたがるのもどうかと思うけど。まぁあくまで比喩として)が垂れてきてくれない限り、その内側(裏側)へ入り込むことさえできない。んで、運良く例えば mixi へ入れたとして、その中でもまた「日記は友人まで公開」とか「友人の友人まで」って表と裏は際限なく分割されつづける。

 断っておくけど別にそれを断罪する意図はこの文章にないです。ただ単純に「あぁ。ほんとどこまで行ってもイタチゴッコや合わせ鏡みたく、この分割ゲームは無限にループしつづけるんだな。表と裏を使いわけて、裏の中にもまた表と裏があって、でまたその裏の。そのまた裏の。裏の裏の裏の・・・って、いったいどこまで深く潜れば本心とか本音の部分に到達できるんだろうな」って、ふと思った。というだけの話。


 ぼくを mixi に招待してくれたある人とこないだ話してて、その人はぼくよりずっと前からインターネットとかテキスト・サイトをやってるんだけど、彼の言うには「ネットやってて、一昔前は相手の顔が殆ど見えてた」と。「今はもうフィールドが巨大化しすぎて、とてもじゃないけど見渡しきれない」と。「だから orkutmixi やってて思うのは、その頃に似た空気感みたいのが少なからずある」と。

 要はこれ、ぼくの個人的な印象では、単なる懐古主義ってより「分割ゲームのネクスト・レベル」なんだろうな。って思う。チャットもそうで、例えば3〜4人の少数でやってたら別に「ささやき」とかしないでしょ。その時点でチャットはまだ「幻の大地」の段階で。

 それが10人とかって規模が大きくなってくると、今度はそのチャット・ルーム全体がドラクエ6んなって、その中でまた「ささやき」という「裏の世界」が形成される。単細胞生物細胞分裂みたく、ミニマルにループしていく感覚。


 キリないですよね、ほんと。夢見る井戸を覗けば「自由に行き来できる」と思ってた裏の世界が、実は表の鏡像で、その「自由」もスタンドみたく射程距離が限られてて、1÷2÷2÷2÷2÷2÷2÷2÷・・・って分割されつづけてく。「安住の地」という名のゴールには結局到達できないんじゃないの? っていう不安(ちょうどそれは「0.00000000・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 = 0」の等式に似ている(気がする))


 坂井(id:hotcake)さんの言ってること(id:hotcake:20040409#p4)とかね。だからすごい良くわかるっつーか。最終的にはどっかで4捨5入して、自分なりの「落としどころ」でケリ付けるしかないんだけどさ。インターネットはいつのまにか壁のある世界になったし、その壁はきっと今後も2重3重の入れ子構造みたく張り巡らされつづけるだろうな。って漠然とした感覚は、ぼくの中にも実際あるわけです。