月面リサイクル・3


■ 音楽 (id:amn:20041119)

 勝井祐二さんのヴァイオリンについて書くときぼくの絶対いつも使う言葉があって、それが「魔法」っていうのなんですけど、ほんと今まで何回も何回も同じことばかりしか言えなくて恥ずかしいけど、でも本当に勝井さんのヴァイオリンには魔法が掛かっていると思う。


 昨夜。なんだか寝つけなくてプラネテス(の、アニメ版のDVD)を深夜までずっと見ていて、部屋の電気を消して、真っ黒の部屋で、音もヘッド・フォンで聴きながら見てたらグッときちゃって、それでぼんやり宇宙とかそういうのを考えてるところへ連想で Rovo が浮かんで、そしたらあれ? そういえば明日ってちょうどライヴじゃなかったっけ? と思いだして、確認したらやっぱりそうで、今日はアルバイトが夕方で上がりだったので「あ。こういう思いだし方とタイミングの完璧さは、つまり天啓っていうやつだ」って瞬時に思った。

 当日券が残っているかどうかも調べずに行った渋谷AXで、ちょうど今日が雨だったせいもあったと思う、もうそれほど多くなかった当日券の、最後から何枚めかを買えたのでやっぱり天啓だったと改めて確信し、ビールを飲む。


 率直に言って、今日は「泣きに来た」つもりだった。最近ちょっといろいろ鬱々なことが多くて、気分も沈みがちな日が多くて、そういう今、勝井さんのヴァイオリンを聴いたらきっと自分は泣くと思った。泣く、というか「泣ける」と思った。それはきっと甘えなんだろうけれど、なんであれとにかく泣いてしまえば少しは軽くなると思って、そういう、すごい女々しい感情を抱えてぼくは雨の中、渋谷へ出てきたんだった。


 勝井さんの、というか Rovo の、魔法はけれどそんな程度のものじゃなくって、落ち込んだ気持ちを「軽くする」っていう段階をすっ飛ばして、一気に最上段へぼくは持ってかれて、気がつけば最高に楽しくて大笑いしながら全身で踊りつづけてた。渋谷AXのモッシュ・ピット(って言うのかな? わかんないけど、ステージ付近の客席前方)にはライヴ前から甘い匂いが漂っていて、勿論ぼくにそんな用意は(時間的にも、経済的にも)なかったんだけど、ライヴが始まって何曲か終っていったん演奏が止まったとき、隣にいたお兄ちゃんに「ねぇ、良かったら分けてくんない?」って肩を指で叩かれた。

 ぼくが「や、持ってないけど」と言ったら彼は「そうなの?」と言って、で「すげーイッちゃった顔で笑いまくって踊ってるからてっきりそうだと思ったわ。ごめん」と言って、ぼくは「あー俺そんななってたのか」と少しだけ恥ずかしく思ったような気もするけれど、でもそのときは Rovo の音の幸福感と、良い具合に回ってくれていたアルコールで「まーでも全然別に良いや」って思って、また次の曲が始まったらそんな感じでへらへら踊ってたんだと思う。


 セット・リストは「1曲めと最後の曲が確か知ってる曲のどれかで、あとは全部知らなかった」というくらいしか覚えてなくて、で Rovo の音は、全体的に今までより丸くなったというか柔軟になったというか強靭になったとかそんな感じの、リズムの打ち方が今までとだいぶ違ってた気がする。んだけど、あんまり細かくわからないけど、とにかくまだまだ Rovo の音は「動いて」いて、日々変化していっていて、今日のは今までみたくガツンとまっすぐハードな感じっていうよりもうちょっと緩やかで、しなやかで、ぐにゃぐにゃしていて、けど緩みきっては勿論いなくて、なんだろう、なんていうか多面的な? もっと今までより纏わりついてくるような感覚が、ものすごく気持ち良かったのだけ覚えてる。

 音の「渦」っていうより「網」みたいな、その網に絡められていくような気分で、けどまぁそんなのもあんまりどうでも良くて、とにかく、ただ、その音の網に絡められていられるだけで最高に幸せで、良い気持ちで、あとはあんまり覚えてないです。


 だからそういう、いろいろ全部を含めてつまり「魔法」なわけで、やっぱり勝井さんは魔法使いだったのでした!

 こういう人が、こういう音楽が、手の届くところに存在してくれている、ただそれだけで、それはとてもとてもとても貴重で、素敵で、幸せで、素晴らしくて、それだけでもう十分すぎるくらいと思った。ぼくは Rovo を語るときに良く使われる「トランス・ロック」っていう形容がすごく嫌いで、けっ。なんだそれ。っていつも思ってるんだけど、でもそんなのも実は全然どうでも良くて、名前なんて全然。


 ただ、あの美しい音楽さえあれば。


 そのものズバリ「音楽」と題してあるように、今まで「月面」でいろいろ音楽について書いてきた中で、個人的にいちばん気に入ってる話。この日、渋谷 AX にて行われた Rovo のライヴの感想なんですけど、文章もグダグダで、語彙も稚拙で、文法もむちゃくちゃなこの文章を、家に帰ってきてすぐ、まだ興奮とアルコールで上気したままの頭で、途中で推敲も一切せずにバーッと一筆書きみたく書き上げて、瞬間、何かぼくの中で吹っ切れたというか、靄々の晴れた爽快感が強烈に来たのを覚えている。

 それが前回ちらっと書いた「レビューとは何ぞや? 的なことを漠然ながら考えていて、あくまで一応だけど、それなりの答えが1回出て」っていう部分なんですけど、そもそも「月面」ていうのは音楽の話をもっと力いっぱい書いてみたい。って衝動から始めた側面がやっぱり少なからずあり、で最初ん頃は「レビュー」と銘打って、もっと伝えよう。もっと自分の大好きな音楽を誰かに知ってもらいたい。共有したい、といった情熱でいろいろ書いてはアップしてきたわけです。


 その「伝えたい、共有したい」という部分は勿論未だにあるんですけど、しばらく書き進めていくうちにその方法論っていうか。伝える・・・ってお前、何を伝えんの? 伝えたいの? 的な疑問をやがて少しずつ感じるようになって。最初はあまり深く考えず「とにかく大事なのは客観性。自己完結で閉じちゃわないもの。自分以外の誰かに伝わるもの、響くもの」みたく思って、単なる感情論でない、筋の通った説得力のある文章を書こう書こうと毎回、試行錯誤と悪戦苦闘の連続だったわけですが、そういう難産を繰り返せば繰り返すほど自分の中で違和感が膨らんでいって。違和感ていうより、正確には残尿感みたいなね。自分なりに頑張って、自分以外の他者にも届くような、届けようと思って書いたつもりの文章なのに・・・「なのになんだろう? 本当に伝えたいことが、実は全然伝えきれてない気がする、この不完全燃焼っぽい感覚は?」っていつも思ってて。

 その頃から「レビュー(=批評)」って言葉が妙に気持ち悪くなって、自分の書いたものに対して使わないようにした。批評っていうのは、まさしく今さっきの感情論に終始しない、客観性を備えた、つまり「ちゃんとした」文章・・・っていうのが曖昧(すぎる)けどぼくの中の定義で、勿論「批評」そのものが悪いとか意味がないって思ってるわけじゃ全然ないけど、ただ自分の本当に書きたいもの。誰かに伝えたいこと。その人に感じてほしいと思ってるのは「あ。なんか・・・そういうんじゃねぇな」っていうふうに思った。


 じゃあ逆に俺が、誰か他の人の語ってる音楽論やら CD 評を読むときに、例えばものすごく高度で高尚で的確で非の打ち所のない完璧な「批評」ってのが例えばそこにあったとしてさ、たぶん俺はそれ読んで「うわーすっげーなー」とは実際思うだろうけど、そっからじゃあ「速攻で明日 TSUTAYA 行って借りよう! 聴かなきゃ!」ってなるかな? って考えると、なんかそれはまたちょっと違う話のような気がする・・・というか、した。それはなんていうか語られてる音楽そのものってより、その人のその批評がすごいんであって(勿論その音楽じたいが素晴らしいことも当然あるだろうけど)でも俺はなんか、そうじゃないなーと思った。思ってしまったのでした。

 俺が読む側であるとき、きっと俺が読みたがってるのはもっと荒削りで全然良くて、ちゃんとした論理性とか重要じゃなくて、感情論丸出しで全然 OK で、とにかく「マジこれ最高だよ超すげーよ揺さぶられまくるぜコノヤローうひょー!!!」みたくね、その音楽を聴いてその人の全身全霊をブチ抜いた感動がそのまま濾過0%でダイレクトに直撃してくるような、そういうゴツゴツして蒸し暑くて感情全開120%のを俺は読みたい! と思った。それはちゃんと批評になってなくても実は全然良かった。俺はただ俺を理詰めで説得してくれるより、俺が「うっわーそれすげー無性に聴きてぇ。お前のその感動を俺にも味わわせろコノヤロー」ってなっちゃうような、そういう感情の押しつけ的な、読んだ次の日に俺の足をつい帰り途中タワー・レコードに向かわせる原動力みたいな、読む側の俺としてはそういうのがいちばん欲しいな、と思った。だからこれは良い/悪いでは全然なくて、個人的な好き/嫌いの話。良いか悪いかどちらかで言えばそりゃ批評は「良い」と俺だって思うけど、でも俺はそれよりもっと感情論のが「好き」だな、と、いろいろ書きながらやがて気づいた。


 で俺は自分が音楽について何か書くとき「批評」を意識しないようになっていって、だから自分の書いたものを「レビュー」って呼ぶのをやめて「感想」と言うことにしました。論理性やら批評性ゼロの「感想文」で全然オッケー。文法なり論旨の破綻もノー・プロブレム。とにかく俺を「それ聴きてぇ」と思わしてくれればアンタの勝ちだし、逆に誰かが「聴いてみたい」と思ってくれれば俺の勝ち。例えば俺がどんだけ Rovo の音楽性の高さや完成度を言葉巧みに表現したとして(できないけどね)結局、聴いてみなきゃ「Rovo すげー!」って誰もならないでしょ? 実感できないでしょ? だったらまず「聴きたい」と思わせたいし思わせてほしいし、俺はつまりそういうものを自分は書きたいと思った。

 んで何回も言うけど「聴きたい」と思わせるのに批評より感想が有効とかそういう話では全然なくて、勿論「お前個人の感動はどうでも良いよ」とか「高度で高尚で的確で非の打ち所のない完璧な批評を読んだほうが、ずっと俺は聴きたくなるよ」って人もいるだろうし、ただ俺は俺自身がそうじゃないからそうじゃないほうを自分でも書きたいし、そういう嗜好の俺である以上ちゃんとした批評を求められても土台無理だし、そういうのはもっとそういうのが得意な人のを読めば良いじゃんていう話で、だから俺は好きな音楽そのものを分析したり的確に論じるより、好きな音楽を聴いて俺がどのくらい感動して脳内麻薬が分泌されまくってそれが超ハッピー体験だったかを一人称でひたすら語るだけの超個人的な感想文が書きたかった。


 その目標の、ひとまず第1段階クリアというか、書き上げたとき「あ。それちょっとできたかも」って思えたのが、つまりこの Rovo の話で、読み返すたびに思うんだけど前日に俺が「プラネテス」のアニメ版 DVD を深夜に延々見てたとか全然 Rovo と関係ないわけですよ。次の日がちょうどライヴだったとか単なる偶然じゃん。何、天啓って? っていう話ですよ。お前の最近が鬱々気味で沈みがちで泣くためにライヴ行ったとかすごいどうでも良くて、だって最近幸せつづきで毎日すげー楽しくて人生最高! って思ってる人も同じ日に同じ場所で Rovo 見て「やっぱ音楽最高! 人生最高!」って絶対なってたわけだし、すげーイッちゃった顔で笑いまくって踊んなくたって、じっとステージを凝視しながら身動きもせず恍惚と「あー溶けるわー」てヤバい状態入っちゃってる人も勿論いただろうしね。だいたい「セット・リストは1曲めと最後の曲が確か知ってる曲のどれかで、あとは全部知らなかった」って何それ? そんなライヴ・レポありですか? っつー話でさ。

 けどそれは全然アリなのです俺の中で。なぜなら俺にとっては前日に深夜まで「プラネテス」見てて、たまたま明日がライヴなの思いだして、沈みがちな日々を泣いてすっきりさせたいっていう超私情で AX 行って、昇天顔でへらへらふにゃふにゃ踊ってて最高だったんだけど曲名は全然わかんなくて・・・っていう、その全部は1つにつながっていて、この日に起きた最高の出来事だったわけで、そういういろいろ全部を合わせて「勝井祐二さんは魔法使いです! Rovo 最高です!」って俺は思ったのでした。


 んで、この文章を読んで実際 TSUTAYARovo を借りたとか、その後 Rovo のライヴに行ってみたとか、そういう人がいたのかどうか知らないので果して俺は勝てたのか? それはわからないけど別に負けでも全然良くて、まぁ勿論勝ちなら勝ちのほうがそりゃ嬉しいけれど、それはもっと先の、これから目指して行きたい次元の話で、とにかくこの文章を書けたことが俺にとってはすごい重要。最初の話と矛盾するようだけど、たとえ他の誰かに何ひとつ伝わってないとしても、その重要さは変らない。

 ところでレビューの主観性/客観性みたいな話は以前、杜塚さん(id:albatross)ガルシアさん(id:headofgarcia)らへんが取り上げてて俺もいろいろ考えさせられながら読んだので今回、この話と是非リンクさせて語りたかったんだけど今これ漫画喫茶から更新してまして、ちょっと該当ログを探し当てる余裕がないんで割愛。ごめん! ひどい言い訳で締め括りつつ「リサイクル・第3回」を終ります。See You!